sate-tsuのブログ

境界性人格障害の疑いがある恋人と、私の話をします。

ゆりちゃんについて

高校時代の同級生、ゆりちゃん。

 

物腰柔らかでなんだか声も体もふっくらしていて、でも体育の時間は俊敏な動きで魅せた実は運動部のゆりちゃん。

誰に対してもおっとりと接して、人の涙や悲しみにも敏感で、きっと人一倍感受性が強かったゆりちゃん。

 

 

今日は彼女の命日である。

 

 

ゆりちゃんは少し前から、Twitterでの悲しい呟きが増えていた。自己肯定感が著しく低く、家庭内でのさまざまな声に刺激されて心がひどく落ち込んでしまうようだった。

それでも学校に来ればふにゃっと笑ってみんなと話して、休むことは決してなかった。

 

冬休みだったか。ゆりちゃんが初めて具体的に自殺をほのめかすツイートをした時、私は何となく見過ごしてはいけない気がした。日付や方法の指定が書かれていた。

死ぬ死ぬと表で言って回る人は死なない。

よく聞く言葉であるが、それがSOSのサインである場合は?放っておいたらどうなるかなんて、誰にも分からないのでは?

なんとなく信頼できる友人にDMを送り、そのまま指定日に家に行ってしまおうと決めた。

 

美味しいものを一緒に食べよう

待ち合わせ場所でホールケーキを買って、時計を何度も見ながら電車とバスを乗り継ぐ。まだ道路には雪が残り、空はどんより鉛色。ゆりちゃんの家まで、頼れるのは一度遊びに行ったことがあるという友人のかすかな記憶だけ。

見つけてもなかなかインターホンを押す勇気が出ず、そのうち車がないことに気づいて、寒空の下で鼻水を垂らしながら時間を潰した。

 

しばらくしてから本人に連絡がつくと、ゆりちゃんは家の外まで迎えに来てくれた。目の下はこけ、唇は真っ白、部屋着であろうパンツから伸びる足は、棒のように細くなっていた。友人も私も絶句した。薄い体を二人で囲み、ハグした。

彼女の家の中で私たちは、なんてことない他愛ない話ばかりした。ゆりちゃんのお母さんは、昨日出かけた際に車内でゆで卵を食べ過ぎて、気分を悪くして休んでいるそうだ。

お母さんゆで卵大好きだから、と話すゆりちゃんの顔が本当に愛しそうで、安らかで、私たちはしきりに笑いながらその話を引き延ばした。

 

急に押しかけてごめんね、お茶ありがとう、と最後に声をかけ、冬休み明けの話を少ししてゆりちゃんの家を出た。

帰り道、陽が傾き始めた空が劇的な美しさだったことを強烈に覚えている。

 

 

相変わらずゆりちゃんはTwitterで悲しい呟きをしていたが、そのままみんなで卒業した。

そうして一年後、彼女は亡くなった。

 

 

ゆりちゃんのTwitterで彼女の姉を名乗る人の呟きが投稿され、フォロワーだった同級生たちはその事実を知る。またいつものでしょ、と初めは取り合わなかった人もいた。でもやはり事実は事実だった。

当時私たちの担任だった先生は、ゆりちゃんと小学校からの付き合いで、搬送されるゆりちゃんの元に駆けつけ、頰を叩いて叫んでいたそうだ。熱くて人望のある、みんな大好きな先生だった。

彼女が亡くなった次の日、バイトの休憩中に先生から電話がきた。

 

「お前、ゆりが一度死にそうになった時止めに行ったんだってな。ありがとうな みんなで卒業させてくれてありがとうな」

 

震える声で言われた時、ずっと張り詰めていた糸が途切れたように涙が出てきて仕方がなかった。歪む顔をなんとか正してバイトに戻ったが、 心が無茶苦茶に殴られているようで、どうしようもなかった。

 

違うんだよ先生

私たちは何もできなかったんだよ

ゆりちゃんが求めているのは、私たちじゃなかったんだよ

 

正直なところ、ゆりちゃんとはさして親密ではない。一緒に家に乗り込んだ友人ともそうだし、友人もまた、ゆりちゃんとの仲はそれほどではなかった。でもきちんと友人だと思っていた。助けを求める声を無視するのは不可能だった。

 

あの時気付いてしまったのが私たちで、あなたの元に行ったのが私たちでごめん。心の内を全てさらけ出せるような仲の人間でなくてごめんね。

お母さんのことが大好きで大好きで、お父さんにもっときちんと認めて欲しかったこと、知ってるよ。

あなたが求めている愛情は、私たちからのものじゃないのは分かってたよ。

分かってたのが私たちでごめん。

 

しばらくゆりちゃんのことが頭から離れず、考える度に私は自分がとんでもないエゴの塊で、ただ己の欲だけで彼女の苦しみを無駄に引き伸ばしただけなんだと、そう強く思うようになった。

こうしてゆりちゃんのことを考えていること自体が偽善なのでは?今流している涙は誰を思ってのもの?友達を助けられなかったと、悲劇に酔いしれているだけなのでは?私は今なにかを楽しんだり、幸せを感じる価値がないのでは?いや、そんなことを考えていること自体がやはり偽善では?

 

私は私の記憶から、あなたがいなくなるのがとても怖い。純粋にあなたを悼む気持ちからくるものなのか、偽善で行動した自分への罪滅ぼし的なものなのか、未だに分からない。

忘れてしまわないように、四六時中考えた。人は人の記憶を、声から忘れていくらしい。そんな話を耳にしてから、しつこくゆりちゃんの声を頭の中で再生した。私の名前を呼ぶ、ふんわりしたゆりちゃんの声。

まだ忘れていない、まだ大丈夫、まだあなたを覚えている。

 

私はまだ、ゆりちゃんの死について、手伝えたかもしれない正解への道はなかったのかと考えるのをやめられない。

これも偽善なのか。世間のいう偽善とは何か。ではどうすれば偽善ではなく善になり得るのだ。私はどうすればよかったのだ

彼女の死は明らかに、死のための死ではなかった。生きたい、生きたい、愛されて、認められて生きたい、でもそれが叶わない。その結果の死だった。

 

今はただ、ゆりちゃんが苦しみも痛みもなくいますようにと願うしかない。あなたが闇の中でひとりぼっちで悩んで悩んで出した答えが、あなたにとって安らかな選択であったことを願うしかない。

あなたの記憶にしがみつき、誰のためか分からない涙を流し、あなたの声を勝手に再生する私を許してほしい。

 

頭の中で、ゆりちゃんが私の名前を呼ぶ。ふんわりしたゆりちゃんの声。

まだ忘れていない、まだ大丈夫、ずっとあなたを覚えている。