きちんと愛するために
「俺を裏切らないで」
お付き合いを始めて間もなく、ほんの小さなすれ違いをきっかけに放たれたこの言葉。
恐らく発言した本人はもう覚えていないだろう。
身構える間もなく受け止めたその言葉は、繰り返される衝突の中で粉々に砕け散った。私は全身にその破片をまとって、今日まで生きてきた。
正しく述べると、この状況はきっと問題なのだ。
今でこそ半同棲状態だが、付き合った当時は夕飯を一緒に食べ、週に数回はそのまま彼の家でお泊りというスタイル。
その日、いつも通り彼の家に一度帰宅した私は、1時間後にバイトを控えていた。「夕飯の買い出しに一緒に行こう」という彼の言葉に、「いいけど、バイトあるからそのまま今日は帰るよ」と返した。予め伝えていた通りに。
この一言、たった一言が、全てをひっくり返してしまう。
なんで?どうして?
ご飯一緒に食べられないの?一緒に帰ってきたんだから一緒にゆっくり過ごせるんじゃないの?
そんなに時間がないの?
そんなに俺といる時間がないの?
俺から離れていくの?
ここで私は、完全に彼の敵となった。
直前までどんなに仲良くいちゃついていても、私が敵である間はそんなものは見えなくなる。もなやなかったことに近い。
バイトあるって言ったじゃんとか、毎週この曜日は帰ってたでしょとか、そういう言葉はほとんど届かない。猛烈なスピードで繰り出される、人格否定ともとれる言葉たち。必死にかわしながら説明を試みて、話をしようとしても、その中に彼にとっての「否定」が含まれていれば、ますます攻撃の勢いは増していく。
しばらく揉めた後、彼はごめん、でも寂しいんだよ、一緒にいたいんだよと呟いて、ぐったりソファに腰掛けた。
虚ろな目で空を見る彼は、そのうち細かに体を震わせ始める。本能的に、痙攣の演技をしているのだと気づいた。気づいたが、私は黙って彼に寄り添い、話を聞いた。
ポツリポツリと、断片的に幼少期のことを語り出す。母親からの愛情が圧倒的に足りなかった、今も探している気がする、小さい頃から愛を欲しがっているのだと
何かでその穴を埋めようとしているけど、母親以外の誰にもきっとそれはできないのだと
分かっているけれど、分かっているからこそ、誰かに縋って、もらった「何か」を無理矢理穴に当てはめているのだと。
お願い、俺を裏切らないで。
あなたにとって裏切るってどういうこと?
俺から離れていくこと。
最後の方は消え入るような声で、そのまま彼は嗚咽した。私はバイト先に遅刻連絡を入れて、小さく小さくなって子どものように泣く彼を抱きしめていた。
この日の出来事は、今思い返せば可愛らしいとさえ思える程のもの。
しかし、この愛しい人が抱えているものは、私の想像も及ばぬような、もっと深くて暗い何かではないのかと考えるきっかけに十分だった。
壮絶なぶつかり合いで何度も心をすり減らし、お互いに傷付け合って、
そうして私は「境界性人格障害」という言葉に出会う。
呪縛じみた破片塗れの私は、このままでは彼をきちんと見ることができなくなってしまう気がする。どれだけ時間がかかっても、ひとつひとつ取り除かなければならない。
完全な理解や、分かり合いを私は求めない。ただ穏やかに、彼と毎日を過ごしていたい。お互いにまんなかの位置をキープできるようにしたい。
裏切らないから、離れていかないから、彼をきちんと愛するために、私自身と彼について考えたいのだ。