sate-tsuのブログ

境界性人格障害の疑いがある恋人と、私の話をします。

片思いは続く

恋人であった期間もそうでない期間も含めて、彼との付き合いはもうすぐ三年目になるだろうか。

私はずっと、彼に片思いを続けている。

 

一緒にいれば聞こえてくる、「愛して」のサイン。愛して愛して。愛して。

私はそれに応える。目一杯の愛を彼に捧げる。愛して愛して。愛してるよ。愛して愛して愛して。愛してるよ、こんなにあなたを愛してるよ、大好きだよ。愛して、愛して、

 

 

そうしていつしか私は気づいた。

私が捧げる愛情は、必死に差し出される彼の手の隙間から、だらだらとこぼれているだけなのだ。

 

彼はずっと満たされない。

でも、私の愛はずっと受け取ってもらえない。

こんなに悲しいループがあるだろうか。

 

穏やかに続く日々の中でも、ふとこういうことを考えてしまい、悲しくてたまらなくなる時がある。こんなに愛しているのに、毎日伝えているのに、一体どれほどあなたに受け取ってもらえているの?

彼の中にあるのはひたすら「愛して」だけである。自分の手からこぼれているものの存在にすら気付けていないのかもしれない。

 

しかし、この平穏な生活そのものが、実は彼が愛を感じている証拠なのではないかと、最近思うようになった。見捨てられ不安に怯え、試し行為に駆り立てられる回数は劇的に減った。刺激や恐怖の原因を大幅に取り除けているのは確かなはず。

お互いの間を流れる気持ちに、愛はきっと存在している。言葉にしないと見えづらいだけで、本当は生活の小さなワンシーンに、それは散りばめられている。

私が体調を崩しても、彼は大丈夫?なんて滅多に言わない。でも帰り際に必ず、私の大好物の牛乳プリンを買って来てくれるようになった。これは愛だ。

彼が夜な夜なネトゲに勤しむ時、私はスマホで全く違うことをしていても、隣にイスを出して座るようになった。お互いが時間や空間を共有していると実感するのが、彼の安心に繋がることを知っているからだ。これも愛。

例えそれが恋人間でやり取りされるような類のものでなくてもいい。私の愛があなたの周りにもたくさん落ちていることを、もし無意識にでも感じてくれていたら。

 

 

今の彼は、どうやら「彼女」としての私の愛を言葉で求めているわけではないらしい。仕方がないのであまり言わないようにしている。残念なことに、頭では理解していても、心の中では毎日同じペースで彼への愛情が生産され続ける。

私は持て余した愛を、Twitter含め、外へと発信する。だってもったいないもの。側から見たらただの変態的な惚気でしかないはずだ。本人にぽろっとこぼしても、真顔で引かれるなんてざらにあるのだ。それでも言葉で残しておきたい、自分の目で見て何度も噛み締めたいものなのだ。

 

隣で日々を共にする、この生活も今年度で終わる。物理的距離が離れたら、関係自体の変化も当然起こるだろう。

その前にもう一度、一緒にいる間にもう一度だけ、「愛してる」と言葉で伝えられる日を、長引く片思いの中で私は待っている。